死刑存置の論拠としての世論の支持

新保 史生




1.死刑存置の論拠としての世論の支持

 総理府は1994年11月26日付で、「死刑制度の存廃に関する世論調査」(1)の結果を発表した。73,8%の人が「場合によっては死刑もやむを得ない」と答え、13,6%の人が「どんな場合でも死刑は廃止すべきだ」と答え、今回の世論調査においても、死刑存置は依然として世論の大勢を占めたと言える。総理府による過去5回の世論調査においても死刑を存置すべきとする者は常に6割りを越えており、さらに、今回調査における死刑容認派の数値は、過去最高であった。
 法制審議会刑事法特別部会の最終討議を経た改正刑法草案では、法定刑としての死刑を廃止し、現行法典から死刑犯罪の数を削減し、死刑の適用は特に慎重でなければならないとし、「廃止論の主張を大いに考慮したものとして評価されている」が(2)、結果として死刑存置という結論を下している。その理由としては、「現在のわが国の社会情勢および犯罪状況からみて、死刑廃止は時期尚早である、裁判は慎重な手続きで行われているので現状のままで支障は少ない、極悪非道な犯罪には極刑が必要である、死刑には犯罪抑止の効果がある」、などがあげられているが、世論調査における「凶悪な犯罪は命で償うべきだ」「廃止すれば悪質な犯罪が増える」「被害者や家族の気持ちがおさまらない」という理由から(3)、死刑は存置すべきであるとする多数派の結果が、法制審議会による死刑存置という結論の根拠となっていると見てよいと思われる。はたして、世論調査は真に世論を反映しているのだろうか。そして、死刑を存置する正当な根拠として採用されるべきものなのであろうか。
 例えば、同じく統計調査によるものとして、統計的数字による死刑の威嚇力に関するセリン(Sellin)教授の行った統計調査は(4)、いずれの調査結果も死刑の威嚇力に関して、否定的であるという結果を示したが、連合委員会は統計的資料の有用性を認めながらも、この種の問題に関して並行して研究していた英国王立委員会が統計調査の結論として、数字の表わす否定的結論は死刑の威嚇効果を否定するものではなく、数字が信頼しうる証拠を与えないことを意味するとした結論を採用し、死刑存置という結論に達している。(5)
 同様に世論調査においても、統計による威嚇力証明の批判理由としての、「経済的構造を異にし、年齢と男女別の分布状態を異にし、人種を異にしたうえ、風土気候を異にした社会相互を比較することの困難性」(6)などは当てはまるであろうし、さらに、世論調査においては例えば、思想・信条、社会的地位、職種、学歴、など調査対象者個人の問題も絡んでくることになり、事態は一層複雑である。
 統計的数字を基礎とした論証、特に死刑の威嚇力についてそれを計ろうとすることに対する批判に対して、斎藤静敬教授は、統計による死刑の威嚇力を証明することに対する批判はあるが、そこに真実も含まれているのは事実であり、よってある程度の蓋然性をもった結論を引き出すことができることを指摘し、ゆえに、統計的、実証的な見地から、死刑が犯罪に対して威嚇力を有するとは認められないとする結論を導き出している。(7)この見解からすると世論調査による数字も、その数字からある程度の蓋然性をもった結論を引き出すことができると考えられる。
 しかし、殺人率の比較は個人の主観によりその数が変化することはないが、 世論調査においては変化する(世論なのだから変化するは当たり前のことではあるが)。つまり、ある方向へ世論を誘導することも可能であるとはいえないだろうか。
 マスメディアが事件の初期の段階で行う詳細で生々しい事件報道を見たものは誰でも、その事件が凶悪であればあるほどその犯人に対する憎悪の念が大きく、凶悪犯罪を犯した者に対する社会の応報感(8)が増大し、必然的に世論は死刑存置に傾かざるを得ない。
 総理府が行っている死刑の存廃の問題についての世論調査における質問と解答の内容にしても(9)、@「今の日本で、どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか」という質問をするにあたって、A「ところで、人殺しなどの凶悪な犯罪は4、5年前と比べて増えていると思いますか、減っていると思いますか、同じようなものだと思いますか」という質問に9割もの人が「増えている」と答え、B「あなたは、死刑という刑罰をなくしてしまうと悪質な犯罪が増えると思いますか、別に増えるとは思いませんか」という質問には5割弱の人が「増えると思う」と答えた後に、「どんな場合でも死刑を廃止・・・」という質問をされれば、死刑を存続したほうがよいのではないかという漠然とした印象のもとに、「賛成ではない」と答えてしまうのは当然ではないだろうか。
 ましてや、死刑存廃に関する様々な論点、犯罪の実情、死刑囚や死刑執行の実態などを大部分の調査対象者は知らず(10)、また、知らされてもいない(質問に、誤判の可能性などがあることは一切触れられていない)という状況下での世論調査なのである。そのような世論調査を根拠として死刑存置を肯定することには、はなはだ問題があると言わざるを得ない。

2.死刑存廃論

 生命刑ともいわれ犯罪人の生命を剥奪することをその内容とする死刑は 「刑法と死刑とはその歴史を同じくする」といわれるほど、刑罰としての歴史は長く、かつては、死刑は刑罰の中心でもあった。しかし、世界各国は徐々に死刑廃止の方向へ向かっているといわれている。その傾向がはっきりと見られるのはラテン・アメリカ諸国と西欧先進諸国である。
 わが国においても平安時代に346年間死刑を停止した時期があるが、いまだに死刑制度は存続している。そして、死刑存廃に関するの論争もいまだに続いているのである。
 では、死刑存廃論の論争点としては、どのような点があるであろうか。
*法哲学的論点(法の名による殺人は許されるか)
*刑事政策的論点(死刑に一般予防の効果があるか 法社会学的な存在価値があるか)
*憲法的論点(死刑は憲法36条が禁止している「残虐な刑罰」にあたるか)
*デュ−プロセス的論点(誤判の場合の被害回復の不可能性をどう考えるか)(11)
以上の4点が論争点としてあげられている。
次に、死刑存置論、廃止論それぞれの理論的根拠にはどのようなものがあるのか、挙げたいと思う。

3.死刑存置論の論拠

 斎藤静敬教授は死刑存置論の論拠として@民族的法律観念を理由とするもの、A威嚇力を理由とするもの、B社会契約説を理由とするもの、C国民性と社会状態を理由とするものを挙げている。
 小川太郎教授は、@死刑は威嚇力をもつ、A死刑は正義にかなう刑罰である、 これによって、殺人者は贖罪の途を得る。B真に社会的に危険な者に対し、社会は自己防衛のためにこれを殺して永久に排除するのである、C世論は死刑の存続をのぞんでいる。とくに凶悪な犯罪者に触れる機会の多い警察官や刑務官に対してはその職務執行を安全にするために死刑を存続してその安全な職務の執行を担保しなければならない、D死刑に代わる適当な刑がない。終身刑は、死刑よりも、むしろ残酷であるといった理由を挙げ(12)、齊藤誠二教授は、@法秩序を維持するうえにおいて、死刑の威嚇はなお有効であり、それは一種の必要悪である、A極悪な犯人を社会に放置するのは危険であり、完全隔離をする必要がある、B回復の余地のないことが死刑の威嚇力の支えになるものであり、また、誤判回避は刑事裁判に必須のものであり、誤判回避の手段は別途講ぜらるべきものである、C極悪犯人(特に人を殺した者など)には、その生命を奪うべき刑罰を科すべしというのが一般の法的確信でもある、という理由を挙げている。(13)
 その他、死刑は無期刑に比べて経費がかからないこと、優生学の立場から言っても、改善不能の犯罪者は死刑に処した法が良いということなどを死刑存置の論拠とする主張するもあるが、死刑存置の論拠としては、なじまないのではないだろうか。
 前者については、わが国における殺人事件の件数、ならびに死刑宣告を受ける人数からして、たとえ、それらの既決囚が死刑の代替刑としての無期刑に処せられたとしても、国の財政を著しく圧迫するとは到底思えない。ましてや、国の財政事情から人間の生死を決めるなどということは、とても死刑を存置する正当な理由とはなり得ないと思われる。
 後者については、ロンブロ−ゾの生来性犯罪人説にみられるように、犯罪原因として遺伝素質が重要な役割を果たすといった研究は、現在においては根拠の無いものとして否定されていることから論理的ではない。

3.死刑廃止論の論拠

 斎藤静敬教授は死刑廃止論の論拠として@人道主義を理由とするもの、A死刑に威嚇力なしとの理由よりするもの、B誤判を理由とするもの、C被害賠償を理由とするもの、を理由として挙げている。
 本格的な死刑廃止論の火蓋を切ったチェ−ザレ・ベッカリ−アは、@社会契約として共同意思をつくるため個人が提供するのは、その自由の最小部分であって、最大の財産である生命が含まれる筈が無い、A個人は自殺する権利をもたない。従って自分の生命を奪う権利を他に譲りわたすわけはない、B死刑は永続的な長期刑よりも威嚇力がない、C死刑の廃止は人類の歴史のなかの真理である、ことなどを死刑廃止の論拠としている。
 正木亮博士は、@人間が人間を殺してはならぬという宗教的、人道的立場に立つもの、A刑罰経済の原則に立つもの、B誤判のあり得ることを前提とするものを挙げている。(14)
 齊藤誠二教授は@死刑は残酷である、A死刑には威嚇力がない、B誤判の生じた場合に回復しえない、C国家が殺人を禁じていることと矛盾する、D社会からの犯人の隔離は終身刑で代替しうる、E死刑には考えられるように苦痛はなく、被害者に対する賠償の意味もない、などを理由として挙げ(15)、小川太郎教授は、@死刑には威嚇力はない。威嚇力があると思うのは幻想である、A殺した者は殺されるという反坐的な正義はもはや根拠のあるものではない。生命の尊貴は殺人者に対しても認めねばならない。国家はむしろ死刑を廃止することによって、みずから生命尊重につき範を示さねばならない、B凶悪な危険な犯罪者から社会をまもる道は死刑以外にも求めることができる、C実際問題として、誤判をさけることはできない。誤判によって死刑が行われたばあい国家はとりかえしのつかない過誤をおかしたことになる。誤判の可能性のある裁判に死刑という措置を認むべきではない、などを理由として挙げている。(16)
 その他、憲法違反であること、国家が殺人を禁じていることとの矛盾、死刑の執行は一般人に対して残忍性を流布し、人命軽視の結果を招来する、なども廃止論の論拠である。
 また、死刑は貧困者により多く科される傾向があり、不平等な身分刑的一面を有するという主張もあるが、これは死刑に限らた問題ではないと思われる。

5.死刑存廃論の接点

 以上は一般に論じられている死刑存廃論の概観であるが、存置論、廃止論の両論とも死刑の威嚇性、人命尊重、誤判の問題をその理論的根拠としている。
 両者とも以上の三点をその根拠としているということは、もはやどちらの説が自らの考えと一致するかという次元の問題であり、個人の信念の問題であるように思われる。
 

おわりに

 安心立命の境地に達した死刑囚に対して死刑を執行する気持ちになれるだろうかということ、科学的基礎のない死刑の威嚇力への無上の信頼に基づく威嚇手段としての死刑の価値への疑問、裁判制度には誤判が伴うことなどを指摘し、実証的な考察から判断して死刑を存置することに心情が許さないとする斎藤静敬教授の死刑廃止論。
 死刑事件における誤判の可能性を考えたとき、誤判の苦悩は死刑制度そのものの苦悩であると述べ、誤判によって無実の者が処刑される危険を考えると、死刑は廃止されなければならないとする団藤重光教授の主張などについて考えたとき、必然的に我が国の死刑制度の向かうべき道は、見えてくるはずである。
 世論は死刑を支持しているという結果が一応でてはいるが、その結果に対する疑問は前述の通りである。しかし、世論により死刑制度が肯定されているということは、同時に、世論の支持がない死刑制度は廃止されるはずである。世論調査により「将来も死刑を存続すべき」とする人の数は減少しているのである。(17)  
 最後に、裁判官も人間であるが、間違いましたではすまされないのである。 「一人の無実の者が処罰されるよりは十人の真犯人が免がれる方がよい」(18)という格言もあるが、死刑を存置すべきか廃止すべきか、今後もこの問題については考えていきたい。

(1994年12月)

 

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