ロー事件以降は、数多くの判例が本判決における原則を適用し、中絶を選択する女性の権利について本判決において示された大要も、変更されてはいない。しかし、ロ−判決の原則に対して、まったく疑問が呈されなかったわけではない。
下級審においては1980年代までに、裁判所は中絶判例において、その規制に対する決定をするにあたり、「合理性の基準」(reasonableness
test)を用いるようになるのである。「それは、多数意見において裁判官が、母体の健康を保護するための合理的な手段であると考えた場合に、裁判所がその規制を支持するというものである。」(73)また、「裁判官が、その法律が母体の健康保護ではなく単に中絶を妨げるためだけのものであると考えた場合には、裁判所はその規制を無効とするのである。」(74)
さらに、「裁判所は、生育可能な胎児の中絶を規制又は禁止した法律を審理する際にも、同様のアプロ−チを用いている。それは、生育可能と思われる胎児の保護に関して、合理的な規制又は禁止であれば、それは支持されるというものである。」(75)
医学的な緊急事態が生じた場合に関しては、「生育可能な胎児の保護のための法律において、母体の生命又は健康保護に関して合理的に例外規定を設けていない法律は裁判所が無効にする」(76)と考えられている。
しかし、「合理性の基準」は、連邦最高裁の法廷意見においては一度も採用されることがなく、ロ−判決における、やむにやまれない利益(compelling
interest)の基準が用いられてきた。
a.ウェブスタ−事件(77)
連邦最高裁は1989年に至るまで、中絶を禁止した州法を支持する判決を下すことはなかった。(78) しかし、1989年のウェブスタ−事件 において連邦最高裁は、中絶を規制していたミズ−リ州法を、5対4で支持したのである。
ウェブスタ−事件においては、中絶を規制した州法が支持されたが、ロ−判決いおける原則が破棄されたわけではなく、また、そのまま踏襲されたわけでもなかった。
ロ−判決においては、妊娠期間を3期(trimester)に分けて、各段階において中絶を規制するという枠組みをとっていたが、ウェブスタ−事件においては、ケネディ(Anthony
M.Kennedy)、レ−ンキスト、ホワイトの3名の判事が、これを覆す意見を書いたのである。なお、レ−ンキスト判事は、本件においては法廷意見を執筆した判事である。
また、スカ−リア判事(Antonin Scalia)は、妊娠期間を3期に分ける枠組みを破棄すべきだと主張し、さらには、ロ−判決を完全に否定すべきだと主張したのである。
唯一、オコナ−判事(Sandra D.O'Connor)だけが「妊娠期間を3期に分ける枠組みには問題がある(problematic)」(79)としながらも、この枠組みの維持を主張したことによって、ウェブスタ−事件においても、ロ−判決の枠組みの破棄にまでは、至らなかったのである。
b. ケ−シ−事件(80)
下級審においては、「合理性の基準」が中絶規制を支持するかどうかを判断する際の基準として用いられてきたが、連邦最高裁においてこの基準が採用されることはなかった。
しかし、1992年のケ−シ−事件において、連邦最高裁は1970年代及び80年代に下級裁判所において用いられてきた合理性の基準に、非常に近い立場をとったのである。
ケ−シ−事件は、ペンシルバニア州法の中絶を規制する5つの規定(81)の合憲性が争われた事件である。
本件も、ウェブスタ−事件と同様に、ロ−判決の原則に挑んだ事件であると考えられるが、2名の連邦最高裁判事の退官が、ロ−判決の対抗陣営へ新たな希望を与えた事件であり、ロ−判決の確固たる支持者であった2名の判事、マ−シャル判事及びブレナン判事が退官したのである。彼らの後任は、それぞれ、ト−マス判事(Clarence
Thomas)とス−タ−判事(David H.Souter)であった。(82)
ウェブスタ−事件においては、オコナ−判事の意見だけが、ロ−判決の原則を救ったが、ケ−シ−事件においては2名の新任判事の動向が注目された。
結果は、オコナ−、ケネディ、ス−タ−判事による多数意見は、ロ−判決の核心部分に関する支持を表明した。しかし、それはロ−判決全体を支持するものではなく、法廷意見においては、女性が中絶を選択する権利に対して与えられていた保障を、縮小する意見が述べられた。
そして、ロ−判決の核心部分への支持に、ブラックマン、スティ−ブンズ(John
P.Stevens)の両判事が同意し、5名の判事がロ−判決を支持する結果となった。
中絶規制法が違憲とされるのは、女性が中絶を選択する権利に対して「不当な負担(unduly
burden)」を課す場合であるという基準を用いて、夫に中絶をする旨を通知することを定めた規定は違憲であるとしたが、中絶を規制するペンシルバニア州法は合憲であるとしたのである。
ロ−判決が、妊娠期間を3つに分割して各段階においてそれぞれ中絶を認めるかどうかを規制するという基準をとって以来、その後の判例には一貫した基準がない。中絶の規制に関しては、中絶の権利が修正第14条のデュ−・プロセス条項の「自由」の概念を用いた、いわゆる「実体的デュ−・プロセス理論」によって保障される権利であることに関しては、裁判所の見解は一致しているものの、どのような場合に規制すべきなのか、中絶を禁止した法律におけるどのような規定が違憲なのか、まったく明らかではないのである。
しかし、このような状況のもと、その基準を明らかにしようとする試みもある。
その基準とは、「州による中絶の規制は、(1)母体保護、(2)未成年者が責任ある決定をすることを保証する、(3)生育可能又は生育可能と考えられる胎児の保護、のための合理的なものであれば、その規制は支持されるであろう。健康に関する規定は、中絶を選択する権利に対して不当な負担を課すものであってはならない。生育可能であると考えられる胎児を保護するための法律は、生育不可能な胎児の中絶を妨げるような曖昧なものであってはならず、医師が母体の生命又は健康に著しい危険を見出した場合に、中絶を許可するものでなくてはならない。中絶に対する著しい障壁又は罰則を強いない限り、州は女性が中絶を選択することを思い止まらせるために、その他の手段をとってもよい。」(83)というものである。
この基準によれば「ロ−判決以降のすべての判決は、ウェブスタ−事件も含めて、合理的に説明可能である。」(84)とされている。しかし、「この基準はどの判事によっても採用されたことはない」(85)と言われているように、ケ−シ−事件において用いられた「不当な負担」基準などはこの基準に近いものではあるとはいえ、中絶の規制基準に関しては、いまだに明確な統一的基準は存在しないといえよう。
B. 同性愛者のソドミ−行為 -ハードウィック事件(86)を中心に-
1986年のハードウィック事件は、路上飲酒の罰金未納のかどで令状が発せられ、警察官がハ−ドウィック(Hardwick)のアパ−トに、令状を持って入ったところ、彼が男性とベッドを共にしていたため、同性愛者のソドミ−行為(sodomy)(87)を禁じたジョ−ジア州法違反で逮捕された事件である。
連邦最高裁は、5対4でソドミ−行為を罰する規定を設けていたジョ−ジア州法を支持した。その根拠は、デュ−・プロセス条項によって保障される基本的権利の中には、同性愛者がソドミ−行為を行う権利などといったものはないということ。ハードウィック事件が争われた当時、合衆国においては24の州及びコロンビア特別区に、ソドミ−行為を禁止する制定法が存在していることなどを指摘し、そのような理由から同性愛行為は、「この国家の歴史や伝統の中に深く根付いている権利である」とか「制約を伴った自由権の概念(the
concept of ordered liberty)の中に内在する権利」との主張は、支持できないとした。(88)
「ハードウィック事件は、実体的デュ−・プロセス理論を用いた個人的権利の保護の、さらなる拡大への抵抗であったはずである」(89)との指摘にもあるように、「実体的デュ−・プロセス理論」を用いて憲法に明文規定がない基本的権利に、同性愛者のソドミ−行為を加えることを拒否したが、その後のケ−シ−事件においてスカ−リア判事は、「ロ−判決によって保障されたプライバシ−の領域は、同性愛者のソドミ−行為、複婚(polygamy)、近親相姦(incest)、そして自殺などについても同様に保護するものであると考えられる」(90)と述べているのである。
しかし、スカ−リア判事がこのような見解をとったのは、そのような権利すべてが修正第14条のデュ−・プロセス条項の「自由」の概念によって保障されることを、主張するためであったということができるであろうか。というのは、スカ−リア判事はウェブスタ−事件において、妊娠期間を3期に分ける枠組みを破棄すべきだと主張し、さらには、ロ−判決を完全に否定すべきだとまで主張した判事である。
つまり、スカ−リア判事がケ−シ−事件において、「同性愛者のソドミ−行為を禁じるジョ−ジア州法は、憲法上のプライバシ−の権利を侵害するものではないと述べたハードウィック事件の多数意見に、オコナ−判事が加わったことを指摘」(91)し、「それゆえに、ロ−判決において述べられているプライバシ−の権利の背後には、合理的な原則などといったものは存在しないと述べた」(92)ことから考えると、ウェブスタ−事件においては自分と正反対の見解を表明して、唯一ロ−判決の枠組みを維持することを主張したオコナ−判事が、ハードウィック事件においてはその枠組みによって保障されるプライバシ−の領域に、同性愛者のソドミ−行為が含まれないとしたことは矛盾するという点を指摘し、あくまでもロ−判決否定にこだわっていたからではないだろうか。
そのことは、「新たに連邦最高裁判事に任命された保守派の判事の一人であるオコナ−判事が、今にも崩壊しそうなロ−判決の骨組みを、からくも守ったことは、スカ−リア判事にとって非常に残念であった」(93)という記述からも伺い知ることができる。
次に、ハードウィック事件におけるブラックマン判事の見解についてであるが、同判事は「この問題は、同性愛者がソドミ−行為を行う基本的な権利に関するものではなく、それは、ひとりで居させてもらうという包括的権利に関する問題なのである」(94)と強く主張した。
ブラックマン判事の指摘に基づいて本件について考えてみると、ジョ−ジア州法が禁ずる同性愛者のソドミ−行為は、憲法上の保障が与えられていない権利にすぎず、本法がそれに対して規制してもなんら問題はないとするのが裁判所の見解であるが、警察官が個人の寝室へ入ったことは、プライバシ−の権利の本質である「ひとりで居させてもらう」という状態への侵害であると、純粋に考えることはできないだろうか。
結果的に同性愛者のソドミー行為は、プライバシ−の権利に含まれるものではないと判示されたが、本来プライバシ−の権利とは、「私生活や私事を他人の侵害から守る権利であり、社会的評価にかかわりなく、私事への侵害によって生ずる精神的苦痛を救済すること及び真実であっても秘密にしておきたいものを保護する」(95)ことがその本質であるはずであり、いわゆる「人格的自律権」に含まれると解することも可能な権利をもプライバシ−の権利に含めてそれらを保護したことが、結果としてプライバシ−の権利の権利性を非常に曖昧なものとし、どのような権利がプライバシ−の権利に含まれるのかという議論ばかりを先行させる現在のような状況を、導いているように思えてならないのである。
合衆国憲法上のプライバシーの権利(2)「公法学研究第24号」に続く
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